2011年を振り返って

気がつくと6ヶ月間、ブログを書く暇もなくあっという間に過ぎてしまった。今年7月以降、PKO局長の交代があったり、夏以降は出張が重なったりで本当に忙しかった。今年訪ねた国々はインドネシア、インド、マレーシア、コンゴリベリア、ガーナ、コートジボワール南アフリカなど。PKOにとっては、コートジボワールでの危機、南スーダン独立と新しいPKOミッション設立、コンゴ大統領選など、課題とイベント山積の一年であった。

2011年は本当に激動の一年であった。日本にとっては、東日本大震災福島第一原発事故による大きな悲しみと試練の年となった。同時に、世界163カ国以上からの支援の申し出や、日本人が礼節を失わず我慢強く毅然として困難に立ち向かう姿が世界中から称賛されたことなど、私たちに感動と誇りを与えてくれた「世界の中の日本」の姿も見ることができたのではないか。私自身、震災後に世界中の友人・知人から頂いた幾百ものお見舞いの言葉やメッセージに勇気付けられ、日本と日本人であることについて深く考える機会を与えられた。

今年は世界でも激動の年であった。「アラブの春」によるいくつかの独裁政権の崩壊、ヨーロッパの債務危機ビンラディン殺害、70億人を超えた世界人口、タイの大洪水など各地での天災、反格差デモ、などなど。ここNYの国連本部にいても、BRICsやG20の台頭といった国際関係のバランスの変化だけでなく、安全保障をめぐる環境も大きく変化しつつあることを感じる。

大震災後の日本は変わりゆく世界の中で、私たち自身が再認識した日本の持つ強みを最大限活用し、一層愛され尊敬され、一目もニ目も置かれる国、世界をリードする国にならねばと思う。再生日本は、勇気を持って新しいことにもチャレンジしていくべきだろう。

2012年初頭からは、ハイチに加え南スーダンの国連PKO自衛隊施設部隊が派遣されることになった。実は9月以降、私も舞台裏でこの自衛隊派遣を可能とするためにいろいろと努力してきた。震災後の日本が真っ先に南スーダンPKO派遣を宣言したことは、国連で非常に高い評価を受けている。まさに日本でなければできなかったことだと思う。国連職員としてはこの日本の決定をありがたく思い、日本人としては誇らしく思う。南スーダンにとって、日本にとって、そして国連にとっても、きっとすばらしい、有意義な活動になるよう、私も微力ながら精一杯支援していく覚悟だ。海外で活動する一日本人として、世界に貢献する日本人が増えることは本当にうれしい。そして世界で活躍する日本人が増えていくことが、これからの日本の礎ともなると信じている。

今日は私の御用納め。国連は大晦日まで普段どおりあいているが、明日から「日本風に」数日間お休みを頂くことにした。年末のご挨拶を書き、いくつかの残務を片付け、オフィスをきれいに掃除し(自分で)、私の部局の入り口ドアに門松(庭から取ってきた松の枝2本を赤い和紙で飾って水引を結んだもの)、私のオフィスの前のホールには鏡餅を飾る。

明日から娘たちとおせち料理を作る。今年はオーダーせず、娘たちに教えるために作ることに。皆様も良いお年をお迎えくださるようお祈りしています。

コンゴ番外編 女性パイロット万歳!

 コンゴ出張の番外編である。今回の出張中、いくつものフライトを経験したがそのうちの4回が女性パイロットたちのフライトであった。キンチャサからキセンガニ・エンテベ便、エンテベからブカブ便、そしてキワンジャ基地訪問の際の軍用ヘリのパイロットは南ア軍のウェンディー・シャープ少尉。

 ちなみに、さきのオペレーション・デー・ブレイクの南ア軍ヘリの女性パイロットはまた別人である。そして、コンゴからNYに戻るエール・フランス便も、パリ−NYは女性パイロットであった!

 私は何を隠そう、飛行機恐怖症である。1994年にサラエボで墜落しかかったことがあり、以来飛行機に乗っているときはいつもナーバスなのだ。ちょっとしたエンジンの音の変化にもどきどきする。今回、多くの女性パイロットたちのフライトを経験し、そのときはちょっとナーバスだったが、こうして無事帰ってきたのだから、よしとする。

 現場からシャープ少尉の写真をメールで送ると娘から早速返事が来た。Cool!!!!カッコいい!そのとおり、男性は子供を生むことだけはできないが、今日、女性にできないことは何一つない。これからも空に、宇宙に、女性たちは飛び出していくのだろう。女性パイロットたち万歳!

(シャープ少尉の操縦するヘリの中で。)

コンゴ出張総括

 昨夜、ゴマから再び1日かけてキンチャサに戻り、1泊。昨夜はMONUSCOの官房長を務める友人と夕食をとった。彼はスウェーデン人で奥さんはUNHCRに勤めるノルウェー人。家族ぐるみでの長年の付き合いをしている。彼も、また単身赴任である。この仕事は本当に家族には負担がかかる。

 日中ロジャー・ミース事務総長特別代表と時間をかけて今回の訪問での結果を話し合う。ミース特別代表は長く在キンチャサのアメリカ大使を務めコンゴを知り尽くしている人だ。特別代表と2人の副特別代表、軍部司令官、警察司令官、官房長の幹部のチームがしっくりとうまく機能しているという印象であった。PKOに限ったことではないと思うが、トップがうまく機能していると全体がより効果的に活動できる。命令指揮系統をしっかりと整備すると同時に、PKOトップの任命責任の大きさを感じた。
 
 今回の出張で感じたことをいくつか。1つ目は、PKO活動がいかにぎりぎりの判断を求められるかということだ。例を挙げれば、人権侵害行為を重ねるコンゴの正規軍を支援するべきか否か。レイプ犯を国連が支援することはありえないという考え方もあれば、正規軍がオペレーションを行う際に国連のPKO部隊が「支援」することになれば同時に彼らの行為を「監視」することができるわけで、侵害行為を最小限にすることができるともいえる。簡単に答えの出せる問題ではないのだ。

 2つ目は、当たり前のことだが国連が当該国の政府に成り代わって「平和を構築する」ことはできないということだ。市民の保護活動にしても然り。PKO部隊は様々な創造的な試みで、保護活動を最大限効果的に行う努力をしているものの、その活動の中にコンゴ政府軍や警察を見ることはない。つまり、MONUSCOが撤退ということになった暁には現地の保護のシステムは残らないことになる。現地のシステム・能力を構築してこそ、現地政府の自覚ができてこその平和、ということだ。

 そして哲学的になってしまうが、豊かな先進国と紛争下の貧しい途上国とのあまりにも大きな格差にはいつものことながらショックを受ける。その一方、日本もほんの100年前、いや大戦後の65年前にはぼろをまとった裸足の子供たちが多くいたのだ。何をすれば、コンゴが現在の状況から発展への道を歩むのだろうか。

 チームメンバーが取った写真を何枚か紹介してコンゴ出張の締めくくりとする。


コンゴの子供たち。笑顔を向けてくれた。


トラックには人も荷物も山積み。


キンシャサの日没。


 

コンゴNo.5 キワンジャ基地訪問

 今日はゴマから国連の軍用ヘリにのり約30分のところにあるキワンジャ基地を視察。ここで市民の保護活動の詳細を見る。ジャングルの中の基地には花がきれいに咲いていた。インドから種を取り寄せ、まいてみると何の手入れもなしにぐんぐん育ちきれいな花を咲かせるという。

 パトロールというのはわかりやすいだろう。PKO部隊が地域をパトロールしていること自体が武装勢力に対する抑止になるわけなので、昼も夜もパトロール隊を出して警戒する。特に重要なのは、市場がたつ日のパトロール。さきも述べたように、武装勢力は給料の支払いの滞りがちな正規軍も含めて市民から違法な「税金」やら「通行料」やらを取り立て生計を立てている。市場がたつ日は特に現金の動くわけであるから、彼らにとってはねらい目の日なのだ。PKO部隊にとっては忙しい日となる。

 次に、「存在そのものによる抑止と保護」。PKO部隊の基地の周辺は比較的安全であるので難民や避難民がまわりに避難してくることはダルフールなどでも見られる状況だが、キワンジャ基地のすぐ隣にも周辺地域から逃げてきた避難民のキャンプがある。ここが武装勢力によって攻撃されそうになったとき、PKOインド部隊は武装装甲車を避難民キャンプの外側に配置し、武装勢力からの攻撃を防ぐことで避難民たちを保護したという。

避難民キャンプの「プレジデント」からぜひ訪問してくださいとの招待をうけたので、訪問する。

 そして、キワンジャの司令官から詳しくブリーフを受けたマイマイ武装グループのマエレ「中佐」の逮捕オペレーション。日本でも少しは報道があったかもしれないが、2010年の夏、コンゴ東部のワリカレという地域でマイマイとFDLRなどの武装勢力が300人以上の計画的な大量レイプを行うという惨劇があった。マエレ「中佐」はその際に大量レイプを指揮した容疑がかかっている。この容疑者をPKO部隊が2010年10月5日に拘束した際の活動の詳細は、民と軍が一致して軍事の抑止力と文民の交渉力を活用して成功を収めた例として興味深かった。

 このオペレーション・デー・ブレークと名づけられたこのオペレーションにはインド軍と南アフリカ軍のマシンガン部隊および武装ヘリ、そして文民部門のスタッフが数人参加したという。マエレ「中佐」の居所をつかんだ文民職員が現場で「中佐」とその取り巻きにPKO部隊に降伏して身柄を預けるよう、交渉。同時にヘリ4機を投入して現場にPKO部隊が展開したのだが、取り巻き連はRPGを手にヘリを攻撃する姿勢をみせていたという。地上の文民職員がヘリ部隊からの連絡で、彼らがRPGを肩に乗せた瞬間に武装ヘリが攻撃する旨を通告し、結局一発も発砲せずにマエレ「中佐」の身柄は拘束され、コンゴ当局に引き渡されたのである。PKO部隊が必要とあれば武力を行使する意思を明確にしつつ、文民との連携によって効果的に活動を行った例である。ちなみに、投入された4機のヘリのうちの一機は南ア軍の女性戦闘パイロットによって操縦されていたという。しかも、天候があまり芳しくない状況でオペレーションを実施する最終決断は、彼女の「Let’s go!」の一声でなされたのだという。

 「武力」を行使する強固な意志を持ちそれを明らかにしつつ、なるべく行使しないで結果を得ようとするのが国連PKOの極意である。そしてその目的は、最も弱い女性や子供といった市民を守り平和をもたらすことである。「軍は悪」とのたまったどこかの国の政治家はなんとおっしゃるだろうか。

コンゴNo.4 ゴマ

 北キヴの重要な街であるゴマはルワンダとの国境の街である。1990年代半ばのルワンダ難民危機では100万人もの難民が、ルワンダ側のギセニから国境を越えて押し寄せた。活火山であるニアラゴンゴ山が数年に1度噴出す黒い溶岩のおかげで土地は肥沃であり、何でも種をまけば何もしなくても育つのだという。街を一歩出ると、サバンナとジャングルが広がる。

街の中では、木製の二輪手押し車が目に付く。この種の手押し車は、ゴマ地域以外で見たことがない。

 北キヴはインド軍が主に展開している。ここに3泊し、軍司令部や文民各部門からのブリーフ、UNHCRやICRC(国際赤十字委員会)そしてNGOとの会合。ICRCとの会合は特に印象的だった。PKO関係者やUNHCRなど国連の人道援助機関は、職員の安全のため軍のエスコートなしでは移動などをしないのだが、ICRCは独自にどこでも入っていくツワモノなのだ。コンゴ東部はいわゆる「幹線道路」でさえほとんど舗装されておらず、ジープやトラックでの移動が非常に難しいのだが、彼らはその幹線道路からわき道の、ほとんど獣道ともいえるアクセス路をオートバイまたは徒歩で入りジャングルの奥地にまで入って行く。リュックを背負い、時には3日間歩いてあらゆる武装反乱部隊ともコンタクトを保ち、人道活動を行っている。アフガニスタンでもどこでも、紛争地帯で常に最も情報を持ちすごい活動をしているのはICRCであり、私は彼らに最高の敬意を持っている。もちろん、彼らは文民である。

 さて、ここでコンゴの主な武装勢力を見てみよう。まずFARDC、コンゴの正規軍。前にも述べたが、正規軍といっても兵士への給与の支払いも滞りがちで、士気・規律も一般に低く、コンゴ東部で頻発するレイプや略奪といった人権侵害の約半数は正規軍兵士によるものだ。国連はこの正規軍の訓練を支援し、規律の取れた国軍に育てるという活動を担う。そしてCNDP(Congrès National pour la Défense due Peuple)。ルワンダの現政権の支援を受けたコンゴのツチ系の武装グループだが、FARDCとは和議を結び正規軍に編入されているのだが、両者の関係は必ずしもスムーズなわけではない。FDLR(Forces Démocratiques de Libération du Rwanda)は、ルワンダのフツ系の武装勢力で要するに1994年のルワンダでのジェノサイド首謀者の生き残りと、彼らが引き入れたフツ系の若者たちのグループで、正規軍にとって主な交戦相手となっている。ジェノサイド首謀者たちは決してルワンダに帰還することはないが、当時まだ子供であってジェノサイドに責任のない若年層の兵士を中心に、国連は武装解除ルワンダ帰還のための支援努力を重ねている。そして、様々なマイマイ武装民兵グループ。マイマイとは、「水・水」という意味である。彼らはそれぞれのコミュニティーの「自警団」的な存在であったが、魔法の水を体に振り掛けると不死身になると信じている。彼らによる略奪・レイプなども頻発している。そしてウガンダ武装反乱勢力であったLRA(Lords Resistance Army)。その他いくつかの武装勢力コンゴでは入り乱れて活動する。

 ここ北キヴでも、PKO部隊の主たる活動内容は略奪やレイプ、人権侵害から市民を守り、武装反乱部隊の除隊や武装解除を支援することだ。 保護活動に関しては、PKOの民軍が協力して脅威にさらされている地域を訪ね情報を収集して、軍のパトロールを組織して安定化に努める。武装勢力が移動しつつあるといった情報がPKO部隊に入りやすくなるよう、いろいろな村・コミュニティーに現地の人のコンタクトを決めておき、情報を提供してもらう。コンゴという広大な地域で、限られたPKO部隊要員が効果的に保護活動を行うには現地の人々との関係が重要なのだ。

 次回はこのPKOによる市民の保護のいくつかの活動を紹介しよう。

コンゴNo.3 カレヘ基地

 昨夜はブカブのMONUSCO南キヴ旅団基地(パキスタン軍)でブリーフを受けた後、夕食をご馳走になった。パキスタン国内での軍はビンラディン殺害後、不安定要素を抱えているが、ここでは皆、国連PKO活動に貢献できることを誇りに思っているとのこと。

 今日は朝から車で約1時間半ほどかかるカレヘという村の基地を訪問する。車で移動中の現地の様子は非常に印象的だ。

 コンゴという広大な国でのPKO活動の成功の鍵のひとつは、軍事部隊がいかに機動性を持って動き、その存在をもってして市民への武装勢力の攻撃、女性へのレイプを含む人権侵害を防ぐことができるか、というところにある。したがって、コンゴ東部にいくつもの常設の基地または移動基地をもうけ活動拠点としている。

 カレヘはそのような基地のひとつである。ここを拠点にパキスタン部隊は市民の保護のため地域のパトロールを行う。ここ2−3ヶ月、このカレヘ基地の周辺でコンゴの正規軍(FARDC)が訓練をしているということなので、その視察もし、現地のコンゴ人司令官に様子を尋ねた。

 コンゴの内戦では、正規軍のほかにいくつもの武装勢力が対立しているが、正規軍を訓練し支援することによってその能力を高め、規律正しい軍隊に組織していくことにより、内戦そのものを終結させるとともに地域を安定化させていくというのが戦略だ。ただし、これは実際は非常に困難なことである。現在コンゴ東部での市民への人権侵害行為の半分以上が正規軍のFARDCそのものによって行われているほどなのだ。長年の内戦にともなう政府機能の脆弱化によって、兵士たちへの給料の支払いも滞りがちであって、彼らは略奪や違法な「税金」徴収によって生計をたて、地域の女性をレイプする。このような軍を改革し訓練しなおすのは至難の業。カレヘ基地の周りの訓練地には、兵士たちの家族が藁で作った「家」が立ち並び、彼らの困窮度が伺えた。

 カレヘ訪問後、国連のヘリでブカブからゴマに移動。夕方ゴマに到着。ここはルワンダとの国境の街。1996年に訪問した際の、100万人ほどのルワンダ難民であふれていた情景が今でも目に焼きついている。
 

コンゴNo.2 ブカブ

 昨日首都キンチャサから東部のブカブに移動。コンゴは西ヨーロッパ全体くらいの広大な国なので、国連機を乗り継いで1日がかりの移動となった。まずキンチャサから中央部にあるキセンガニ、そこで給油した後いったんウガンダエンテベに飛び、さらに飛行機を乗り継いで再びコンゴに入り東部の街ブカブに。朝8時にキンチャサを出発し、ブカブ到着は夕方の5時。ここに2泊する。

 ブカブにはベルギー人の経営するホテルがあって、時々停電することを除けばキヴ湖を望む高台のこのホテルのテラスは大変快適でリゾートホテルのようだ。ホテルの敷地から一歩出ると、この地の現実との格差に愕然とする。

 到着当日は、チームでこれまでの結果を分析するミーティングをした後、夕食を長年の友人ととる。UNHCR時代の1990年代の初めに、ボスニアでともに暴れまわった(?)スペイン人のホルヘ。私がボスニア南西部モスタールのUNHCR事務所長だったとき、彼が中央部ゼニッツア事務所長であった。そのホルへは現在南キヴ地域担当のUNHCRブカブ事務所長だ。家族をジュネーブに残し単身で2年間の赴任。ティーンになった子供たちが父親の仕事を理解できるよう、夏休みに家族をブカブに2週間呼び寄せる計画を立てているとのこと。家族ぐるみでの付き合いなので、お互いの近況などに話を咲かせ楽しい夕食であった。

 ホルへには南キヴの状況や、PKOミッションの活動状況、人道支援機関との関係なども教えてもらう。PKOミッションの要員以外の人から話を聞くのは、客観的に状況を把握するためには欠かせないと思っているから、現場を訪ねるときは必ずUNHCRや国際赤十字委員会(ICRC)、国際NGO団体や当該国のNGO関係者に会うことにしている。

 明日はPKOミッションの文民職員、現場の司令官(パキスタン)などと面談するとともに、ブカブでの国際機関の調整会議などに出席したあと、現地に展開しているパキスタン軍の基地訪問などをする予定。