ネルソン・マンデラ

小雨の降るニューヨーク。今日の国連旗は半旗。ネルソン・マンデラ氏逝去への弔意を示すためであるのは言うまでもない。

人類社会は時として歴史や人間の精神的進歩をもたらす偉人を生み出す。マンデラ氏は間違いなくそのような偉人の一人だった。オバマ大統領の最初の政治活動がアパルトヘイトに反対することだったとは、訃報直後の彼の会見まで知らなかったのだが、他にもマンデラ氏に大きな影響を受けた人間は多いと思う。

オバマ大統領とはレベルが違うけれど、私もその一人だ。まだ早稲田大学法学部の学生だった頃、アパルトヘイトに関するビデオを東京の国連広報センターから借り出してキャンパスで上映会を企画したり、ANC活動家が来日するとキャンパスの教室を借りて講演会をやったりしていた。学生数の多い早稲田でも、そういう集まりに来る学生はほとんどいなくて、クラスの仲のよい仲間たちに声をかけて来てもらっていたっけ。「民生」でも「革マル」でもない、さっぱりわけのわからない活動をやっている人間だ、と思われていただろう。私は国際法のゼミだったのだが、与えられた卒論のテーマが「海洋法」だったにもかかわらず、私だけ教授と交渉して「反アパルトヘイトのための国際経済制裁」というテーマに変更することを了承してもらった。多分、こういったことの延長上に、今の私がいる。

それにしても。アフリカのみならず、アメリカやヨーロッパのメディアも放送・ネットも含め今日はマンデラ氏逝去と彼が人類に残した大きな遺産のニュースばかりだ。対して日本のメディアは?インターネットで見る限り、扱いは小さい。サッカーW杯、日韓中関係、特定秘密保護法成立のニュースがメインだ。せめて安倍首相には国葬に参列して、平和、和解、正義といったマンデラ氏のビジョンを日本も追求していくという決意を見せてほしい。

近況報告

去年の8月からブログを更新していなかったので、どうしたのですか、大丈夫ですか、仕事やめたのですか、とのメールまでいただく始末。政策部長からアジア・中東部長に異動してからというもの、ともかく忙しかったというのが言い訳です。勤務時間中のスケジュールが分刻みなのは当然として、何か事件があると夜中でも週末でも即対応しなくてはならない。

もうひとつさらに大きな理由としては、中東やアフガンという地域を担当するということは、要するにこの地域での国連の危機管理の実質的な責任者というわけでもあり、意図しなくとも私の発言が非常に政治的な意味を持って受け止められてしまうというリスクが高く、ともかく気を使うことが多くなったこと。実は昨年10月の約2週間のアフガン出張や、今年2月の中東(シリア・レバノンイスラエル)出張中もフライトの中でいろいろ書いたのだが(iPad便利ですね)、その直後のアフガンやシリアでの状況に鑑み、ブログに公表することは適切ではないと考え結局アップロードを控えた経緯もある。日本のメディアにも報道されていたが、シリアで国連要員の人質事件を抱えている最中に、私の個人的な印象などを語るのはどう考えても不謹慎だろうと思う。

アジア・中東部長としての近況報告は、去年内閣府国際平和協力本部のリレー・エッセーに掲載されたインタビューもご覧いただきたいと思う。(http://www.pko.go.jp/PKO_J/info/messages/relay_5.html)西は西サハラから、去年の末に東チモールのミッションを成功裏に閉鎖することができたので東はアフガニスタンまでを担当し、真中に中東地域。やはりもっとも時間をとられるのはシリア・レバノンなどの中東地域である。中東の地域専門家ではない私にとっては、勉強し理解しなければならないことが山ほどあって、毎日大変だけれども、刺激に富んだ毎日だ。と同時に、膠着状態にある安保理のため現段階では国連が効果的な活動ができないシリアの情勢には、毎日心が痛む。そして、2月に実際に現場に入ってその状況を目の当たりにした。シリアへの出張は私にとってはボスニア以来ほぼ20年ぶりの、本当の意味での激戦地域への出張であった。

プライベートでも忙しい日々。これまでずっとNJにある私立の全日制日本人学校に通ってきた次女を、アメリカの私立学校に転校させるための「お受験」。アメリカでも私立学校は基本的に幼稚園や1年生から入るのが一般的なので、4年生からの編入というのは空きができたら可能ということで、入れるかどうか心配だったけれど、何とか引っかかってくれた。学校訪問、子供の面接、両親の面接、子供の性格や家庭の考え方などをエッセイにまとめる願書の準備(英文5ページのエッセイ!)、そして子供の学力テスト。(このテストというのが知能テストのようなもので準備不可能といっても過言ではなく、サンプル問題をウェブサイトで見つけてやってみたところ、夫・私・中学2年の長女全員が解答不能という問題がいくつかありました!)当日、次女は1対1の口頭で行われる約3時間のテストを、何とかパス。こちらの学校は9月入学なので、目下入学準備中。そしてこれからは、日本語をいかにキープしていくかとの格闘になる。

長女は13歳にしてすでに私の身長を超え、成長に目を見張るばかりだ。勉強も自分でやりたいことが増えてきて、かなりがんばるようになった。特に興味のある分野ができてきて、それがなぜか理系。両親とも典型的な文系なので、不思議なことだ。全国テストと大学受験資格テスト(SAT)を受け一定のレベルに達した生徒むけのサマープログラムに合格し、この夏3週間ペンシルバニアのある大学のキャンパスで「解剖学と生理学」を学ぶことになった。典型的な親バカの娘自慢で申し訳ありません。

娘たちにはもちろん幸せな人生をおくってほしいと思っているが、同時に彼女たち持つものや教育によって与えられたものを、他の人や社会に役立てたい、と思う人間になってほしいと思う。そして、彼女たちを見ていると、多分そういう人間になってくれるのかな、という気がしている。

自然の恵み

 スウェーデンでは昨冬は暖冬だったそうだ。そのせいなのか、今年は我が家の庭の様々な木は見事な花を咲かせたという。ライラックの木に始まり、サクラ、キングサリ、ハナカイドウ、シャクナゲツツジ、ボタン。そして今も咲いているつるバラに、いろいろな種類の紫陽花。いつも私たちがやってくる7〜8月にはたくさんのラベンダー。


唯一、いつまでたっても花をつけないのがフジ。もう植えてから5年くらいたち、結構な大きさになっているのにまだ一度も花をつけたことがない。本やネットでいろいろ調べて、リンの割合が多い肥料をやってみたが、さて、来年はどうなるか。それにしても、私は庭仕事が好き。ガーデニングといったしゃれたものではなく、土にまみれて、虫と格闘する庭いじり。定年で仕事を辞めたら春をこの別荘で過ごして、次々と咲く花々を楽しみたいものだ。(夏しかきたことがないので、今のところバラと紫陽花とラベンダーくらいしか咲いてるのを見たことがないのだ。)
 各種の果物も今年は大豊作。我が家の土地に自生しているブルーベリー(3キロ)や野いちご(500グラムくらい)、木いちご(ラズベリー、1キロくらい)がたくさんの実を付けた。赤すぐりの収穫は約1.5キロ。ルーバーブ(日本ではなじみがないが、西欧ではパイやジャムに人気のあるもの)約1キロ。グースベリーはたくさんついている実がよく熟するように待ってパイを焼こうと思っていたら、3粒のこして全部鳥に食べられてしまった。
 今年もジャムを大量に作る。ルーバーブ苺ジャム7瓶、赤すぐり5瓶、ラズベリー6瓶、ブルーベリー11瓶。収穫からジャム作り、そしてジャム瓶の真空加工まで、二日がかりの作業となった。大切な方々へのお土産にしたり、我が家の1年分の貴重なジャム。両親にもここから小包で送ろうかと思う。

異動

 本日付けで政策部長から、同じPKO局内のアジア中東部長に異動することになった。異動の打診があったのは6月末、上級部長(D2)以上は事務総長承認が必要となるので手続きを経て本日発令された。
 アジア中東部長のポストが空席となってすぐ、PKO局長より話があった。この部はシリアを管轄しているところなので、なるべく早急に部長を決める必要があること、これまでの実績からぜひとも私にやってほしいと思う、とのこと。アジア中東部はシリア、レバノンゴラン高原など中東全域、アフガニスタン東チモールカシミールなどアジア地域に加えて西サハラを管轄している部だ。危機管理の観点からも局内でも最も忙しい部なので、正直迷うところもあった。NYでは夫も大変忙しいポストにいるので、2人の子供たちにあまり負担がかからなければよいのだが。これまでにも増して時間の使い方に気をつけなくてはならない。
 子供を持つ働く女性にとって最も大切なのは、ともかくやらなくてはならないこと、やりたいことに優先順位をつけ、スケジュールに入らないものはすっぱりと切り捨てること。私の場合、早起きしてなるべく早く出勤し、夕方はなるべく早く帰宅して子供たちと夕食を共にし、宿題の監督をし、必要なら子供たちが寝てしまってから自宅でコンピューターに向かい仕事を片付ける。結構ある夕方のレセプションやディナーの招待はほとんどお断りするか最初の10分だけ出席ということにして、TVを見るとか、せっかくNYに住んでいながらコンサートに出かけたりなど、娯楽のたぐいがスケジュールに入ることは、今のところ残念ながらほとんどない。
 さて、偉そうなことを言いつつ、現在私は恒例のスウェーデンでの夏休み中。普段が忙しいのでスウェーデンの森の中で家族と過ごす夏休みは私にとって大切な時間だ。どんどん成長していく娘たちに、生活上の基本的なことを教え込むのも夏休み中の大事なこと。手際よく片付けながら料理をしていく手順、残り物の食材を捨てずにおいしいお昼ご飯に作り替えるコツ、お風呂の入り方(日本から風呂桶を買い求め、スウェーデンの我が家には日本風のお風呂がある)と掃除の仕方、基本的な庭仕事や植物の知識など。どれも自分の子供の頃に両親に教わったな〜と思い出しながら教えている。宿題に加えて、私からいろんなことを細々言われるのが、娘たちは迷惑らしく、逃げ回っているが。
 3度の食事作りと家族の洗濯、庭仕事で忙しい。仕事の忙しさと全く違うこの忙しさを「楽しみつつ」、アジア中東部のスタッフが用意してくれたかなりの量のブリーフを、ほとんど息抜きのために読む毎日である。

Slaughter vs. Sandberg

「スローター対サンドバーグ」。法廷での争いではない。最近、アメリカのキャリア女性の間で大きな話題になっている、「果たして女性はキャリアも家庭も、すべてを手に入れることができるのか?」という論争だ。

事の発端は、アトランティック誌の最新号に掲載された、プリンストン大学ウィッドローウィルソン国際関係学部長のアン・マリー・スローター教授のエッセイである。そのタイトル、「Why Women Still Can’t Have it All」。http://www.theatlantic.com/magazine/archive/2012/07/why-women-still-can-8217-t-have-it-all/9020/
スローター教授は、クリントン国務長官のアドバイザーとしてプリンストンを休職してオバマ政権入りし、最近、プリンストンに残してきた家族(ティーンエイジャーの息子2人と同じくプリンストン大学教授の夫)のために、国務省のポストから辞任した。良く知っているわけではないが、セミナーなどで数回ご一緒したことがある。このエッセイの中で彼女は、アメリカの組織文化がいまだに本当の意味で家庭を持つ女性が活躍できるものではないことを自らの体験を下に赤裸々に告白した。同時に、すべてを手に入れようと必死に努力したフェミニスト世代の下の、若い世代の女性には、もっと柔軟に人生設計をするようにとアドバイスしている。例えば、40代で成功しなければならないわけではない、平均寿命が延びて60代でも元気に活躍できるのだから、家族とともに過ごす年代にキャリアが少しスローになっても良いではないか、ということだ。

対するシェリル・サンドバークは、フェースブック社のエグゼクティブである。40代前半の彼女は、2人の子供の母親でもあるという。彼女は2009年にフォーチューン誌で、若い世代の女性たちにともかく勇気を持ってすべてを手に入れるべく努力せよ、前進せよと呼びかけ、以来、各地での講演でそのメッセージを繰り返している。

スローター教授のエッセイは発表の同日、国連の私たち女性職員の間でも瞬く間に話題になった。実は私はPKO局の中では唯一の、「結婚して子供もいる上級部長」ということで、局内の女性職員からメールが何通も飛び込んできた。時機を見て、他の女性幹部職員とも連携して、何かしら議論の場を設けなくてはと思っている。

告白すれば、私自身の考え方は、自分の人生の経緯の中で時に応じて変化してきたと思う。以前は、当然サンドバーグ派。女性だからすべてを手に入れられないのはおかしい、後進の女性のためにも、家庭もキャリアもすべて手に入れなくてはならない、それが可能ですよと示さねばならない、と何時も思ってきた。でも、今は徐々にスローター派に移行しつつあるのかもしれない。幸い私はスウェーデンという、こういう論争そのものが存在しない社会(つまり、男女がほぼ完全に同権になり、男性もごく当然のごとく「今日は僕が子供を保育園に迎えに行く日なので失礼します〜」と4時に退社することが可能な社会)出身の理解のある夫がいるので、これまでほとんど苦労することなしに両立が可能であった。しかし私が近頃同僚たち、しかも同世代の「同志」的な男性職員とよく話すのは、最終的に、プライベートでもバランスよくハッピーでなくては、本当によい仕事ができないのではないか、ということ。ということは、キャリア進展が多少スローになっても、それは将来への投資ととらえる余裕を持つことも重要なのではないか、ということ。確かに私の内面をのぞいてみると、いつも娘たちのことを考えている。ということは、これが目下の私のプライオリティーなのであろう。そして、今から、子供たちが巣立ったときにはこれをしたい、あれをしたい、といろいろと計画を立てているのだが。

日本の女性たちよ。是非、スローター・サンドバーグのエッセイを読んで考え、行動してください!

南スーダンに揚がる日の丸

国連旗のとなりの日の丸。ジュバの日本隊宿営地に揚がる日本の国旗である。長く国連に奉職した私にとって、わたしの国旗と国連旗がともに揚がる風景ほどうれしいものはない。

キガリからナイロビを経て、ジュバ入りした。ナイロビでは、ソマリア関連の話とUNEP(国連環境計画)との政策協議(要するに、どうやってPKOのCO2排出を削減するかという話。なにしろPKOは国連のなかで最も排出量が多いのだ。)をして、おまけに誕生日をむかえてまた1歳年をとり、ようやく今回の出張中個人的には最も優先順位の高かったジュバにたどり着いたというわけだ。もちろん国連職員として、PKOミッションの中でも重要度の高い南スーダンのミッション(UNIMISS)をきちんと理解し、本部からどのような支援をすべきかを考えるということもあった。ちょうど、UNMISSからミッション設立1年後のレビューを支援して欲しいと私の部署に要請があったこともあり、その準備もかねてUNMISS幹部との話し合いが必要でもあった。

しかしそれに加えて、自衛隊南スーダン派遣に国連の中から尽力した人間として、やはり自衛隊の活動そのものを視察して、その実力を思う存分発揮してもらうどのようなサポートができるかを考えてみたかったのだ。これはおそらく今後の日本のより積極的なPKO活動参加につながることでもある。

まず、第一印象としてやはり自衛隊が出ていることによる日本の存在感は大きかった。もう25年間もこういう仕事をしてきて、それこそ数え切れないほどの紛争地・紛争後の現場を見てきたが、ジュバでの日本の存在感はほかとは比較にならないものがあったと思う。もちろん、自衛隊だけではなく、すでに数年間も活動を続けているJICA、そしてまだ大使館ではないが事実上そのような昨日を果たしている外務省の現地連絡事務所、そして国連のいくつかの機関に勤める日本人職員たちの努力によるところも大きい。ジュバの生活環境は決して楽ではないので、本当にありがたくうれしいことだ。

ジュバ派遣されている自衛隊の第一次隊は、中央即応連隊(CRF)からの派遣で、宿営地の立ち上げから施設活動をスタートさせる、私たち国連の言葉で言えば「スタートアップ」のフェーズを担当した。私の訪問からしばらくして、S隊長はじめ皆さんは帰国の途につくことになるという。同時に、順次二次隊がジュバ入りし、本格的に活動が始まっていくことになる。私の訪問中は、宿営地では寝泊り、業務、シャワーや食事などすべてテントであった。(これまでいくつもの宿営地を視察したことがあるが、テントといっても清潔でさすが日本、というレベルの高さ。ダルフールで2年間勤務した私の補佐官は、ダルフール駐在の各国部隊の宿営地とジュバの日本隊の宿営地の差にびっくりしていた。)これから、宿営地にはコンテナが配備され、生活環境は改善されていくだろう。




ヒルダ・ヨンソン事務総長特別代表やオビ司令官などUNMISS幹部にも、日本の施設部隊の活動の質の高さはしっかり評価されている。ともかくまじめに、真剣に取り組み、コミットしたことは守りきちんと達成する。傲慢なところがなく、現地のコミュニティーとの関係も良好だ。性的搾取といったPKO部隊にありがちなスキャンダルとも、もちろん無縁。国連PKOが常に日本の積極参加に高い期待を抱いているのには、当然の理由があるわけだ。

今回の訪問中は、ヒルダから日本隊の活動のタスキング決定メカニズムをどう改善すればよいかアドバイスを求められた。PKOの現場はしばしば複雑怪奇である。特に南スーダンのようにほとんどインフラらしいインフラが存在しない場所では、日本隊への依頼はPKOのみならずUNHCRなどいろいろなエージェンシーや南スーダン政府などからも数多く寄せられる。それらにどう優先順位をつけ、タスキングの決定をしていくか。UNMISSの一部としての自衛隊の活動であるから、正式のタスキング・オーダーはUNMISSから受けなければならないが、いかにそのタスキング・オーダーのなかにUNMISS以外の依頼をふくめていくか。まだ活動初期であったのでUNMISS側も、日本側もこのメカニズムをきちんと機能させていくための努力をしているところであった。ヒルダと日本側にそれぞれにいくつかのアドヴァイスをしたが、活動が本格化していくにしたがって、自然と解決されていくことでもあろう。

この課題には、実は大きな背景がある。イラクアフガニスタンで活用されたPRT(地方復興チーム)の復興支援と、国連の主導の下での包括的な戦略に基づいた復興支援の役割の分担との比較である。いずれも、紛争後の不安定な状況下での支援であるが、実はISAF参加国においてもPRTの活動の効果には大きな疑問がもたれている。国レベルでの包括的な戦略と支援活動の優先順位づけなきままのばらばらなPRT支援は結局のところ大きなインパクトがなかったのではないか、というのがその内容である。対して、国連のPKOミッション活動国においては事務総長特別代表の下、まず当該国の政府とともに平和構築支援の全体像と優先順位付けをしていく。その元で、様々な活動がなされていくべきというのが国連の考える「包括的アプローチ」なのだ。そして、国連はこれこそが国連PKOの強みであると考えている。

これは日本の南スーダンでの活動にとって、どういう意味があるだろうか。私は単にUNMISSとうまく調整して日本隊のタスキングが決められていくということを超えて、この南スーダンの復興支援の全体像・戦略作りにこそ、日本がプレゼンスを向上し、発言権を持っていくべきだと考えている。これは様々なレベルで実現していくことでもある。UNMISSのマンデートを決定する安保理での発言権を確保していくこと。ジュバでは一刻も早く連絡事務所を大使館に格上げして、国づくり支援の全体像についての発言権・影響力を事務総長特別代表や南スーダン政府に対しても高めていくこと。自衛隊施設部隊のもつ強みをしっかりアピールした上で、どのような活動が全体的な国づくり支援のなかで最も効果的になされるのかをしっかり議論していくこと。こういう状況になれば、日本としてうまく国連PKOの枠組みを「利用」しつつ紛争後の国づくり支援を行っている、ということができるのだろうと思う。

少し長くなった。最後になるが、何よりも最も大切なのは、派遣されている一人一人の方々の努力と活躍。訪問させてもらった宿営地のテントでは、家族の写真をデスクの上や簡易ベッドの隣に飾ってあるのを目にした。許可なくブログにそんな風景の写真を掲載はできないが、個人的には一番印象に残る風景でもあった。家族の支えがあってこそできるのが、世界と連帯しつつ日本の国益にもかなう仕事。私も、2人の娘のことをちょっと思い出した、そんな風景だった。

ジュバでお世話くださったS隊長や皆さん、本当にありがとうございました。

ルワンダの今日

前回ルワンダを訪れたのは1995年の終わりごろだったと思う。ジェノサイドから約1年たった頃だった。ザイール(現コンゴ)、タンザニアブルンジなどのルワンダの周辺国に約200万人もの難民が流出し、人道危機の最中であった。ルワンダ国内にはジェノサイドのショックとトラウマが色濃く残り、数日間の滞在中、笑顔の人を一度も見ることがなかったのを、今もはっきり覚えている。

今回の出張は、私たちのPKO幹部候補者向けの研修コースを、オーストラリア政府の資金援助をうけたルワンダ政府が開催し、その閉会式に出席するというのがオフィシャルな目的である。閉会式はルワンダの外務・国防両大臣が出席。実はルワンダ政府との間にちょっとした懸案事項があり、ダルフール南スーダンに数多くのPKO要員を派遣しているルワンダ政府との関係改善・強化のため、急遽出張することになったのだ。懸案事項があるにもかかわらず(だからこそ?)、政府は私を歓待してくれた。外務・国防両大臣との会合、
ルワンダ軍参謀長との会合や昼食会などに加えて、ダルフールなどに派遣されるPKO部隊の訓練施設や、新設の平和アカデミーの視察、おまけにダルフールに派遣されるルワンダ空軍のヘリの視察

など、政府の強い要請で滞在を1日延長してプログラムをこなすことになった。

しかしなんといっても、今回のルワンダ訪問では、ジェノサイド直後からの復興と当時と今日の差に目を見張った。国連職員としてぎりぎりの発言をすれば、カガメ大統領は独裁傾向が強い、と多くの国から批判を受けているのは事実だ。しかし少なくとも表面上、ルワンダの紛争後の「安定」には目を見張るものがあるのもまた事実である。

キガリの空港に着くと、まず機内放送でビニール袋を持っていたら機外に持ち出さないように注意される。ルワンダでは、ビニール袋は禁止。免税品を入れたビニール袋なども没収される。何でもカガメ大統領がどこかのアフリカの国を訪問した際、ビニール袋やごみが散乱する有様を見て、都市の美化のために禁止を決意したとか。確かに、首都キガリにはごみがひとつも落ちていなかった。道路わきのいたるところに花が植えられ、ミルコリン(千の丘)のある街キガリは、これまで訪れたアフリカの都市の中で最も美しい街に生まれ変わっていた。そしてルワンダは、2020年までに中所得国を目指すという。

平和アカデミーの所長(ルワンダ軍の准将)の案内でジェノサイド記念館、そして約2000人が殺戮された教会の跡などを訪れた。約100日間に80万人が犠牲になったジェノサイド。人間はなぜこのような行為をすることができるのだろうか?何が人間を狂気に走らせるのか?ずっと以前、カンボジアのジェノサイド記念館を訪れたときと同じように深く深く自らの内面に問いかける。あまりに大きな犠牲と、あまりに大きな問いかけに、自然と頭をたれることの多かった、今回の訪問であった。