英語公用語化論

楽天が英語を2012年から社内公用語にすると発表して話題になっている。私は大賛成だ。

英語を日本で公用語化する話は、朝日新聞主筆船橋洋一氏が2000年に「あえて英語公用語論」という本で主張なさって論争を巻き起こしたと聞く。私は2000年当時日本には居らず不勉強でもあったのでこの本が存在することも知らなかったのだが、一橋大学に勤めていた2007年に、私は産経新聞の「やばいぞ日本」というタイトルの対談で英語公用化を主張し、産経の読者や産経新聞社のトップに大層不興を買ったと聞く。http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071220/trd0712200343003-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071220/trd0712200342002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071220/trd0712200342001-n1.htm
その後しばらくして、確かフィンランドのアーティサリ元大統領の訪日の際の夕食会で船橋さんとご一緒したとき、この話が出て「私は2000年にこの件では本も書いているんですよ」と、不勉強極まりない私に著書を送ってくださった。

まず感じるのは今回の論争でも、英語を「公用語」にするということがどういうことであるのかが正確に理解されていないということ。たとえば、8月15日の毎日新聞での対談でhttp://mainichi.jp/select/opinion/souron/news/20100815org00m070001000c.html東京大学の西垣教授が言っているように、日本人だけで英語で会議をしなければならない、ということではもちろんない。国連には6つの公用語(公式の国際会議で使う)と2つの作業用語(事務局内の職務上使う言語で英語とフランス語)がある。いずれの場合も、このうちのひとつの言語を使ってくださいということである。国連事務局での会議では英語とフランス語が両方飛び交うことも良くある。私はフランス語は大体理解できるけれどもしゃべるのは苦手なので、フランス語で質問されてもいつも英語で通している。(本当は格好悪いのだけれども。)日本で、国語かつ当然
公用語である日本語と、職務上の作業用語となる公用語化された英語の間でも、それと同じことだろう。日本人だけで英語で会議する必要などあるわけがない。このグローバル化の時代、世界とともにあるためには日本語以外の共通語をコミュニケーションの手段として持つのは当然のことだ。これが「日本語を使えなくなる」ことでないのは当たり前じゃないか。それなのに、ここまでゆがんだ議論になってしまうのは、英語を不得意とする「知識人」が意図的に英語を使う機会を減らそうとしてやっているキャンペーンではないかと、思わずかんぐってしまうほどだ。

藤原正彦氏をはじめとする、小学校における英語教育の必修化に反対する人たちは、英語を学ぶことで国語(日本語)力が低下する、ということを良く述べる。いったい彼らは国語力が低下することと英語を学ぶことの相関関係をどのように証明するのだろうか。私自身の経験上も、またトライリンガルである私の子供たちを見ていてもわかることだが、外国語を学ぶことで母国語への感覚もむしろ鋭くなると思う。言葉は何よりも小さいときに自然と学ぶのが一番だ。私のように、20歳を過ぎてから学ぶのは本当に血のにじむような努力が必要となる。(その分の時間をほかの勉強に使えていたら、私はもっと教養人であったのに、とつくづく思う。)今、日本で小学校から英語を教えないのは、日本の次の世代から必要な教育を奪い彼らの可能性をもぎ取る大きな国家的犯罪にも等しいと思っている。毎日の対談の司会をした論説委員の福本容子さんのコメントを以下に引用する。(ちなみに、福本さんは私の早稲田大学時代からの友人。いつも良いコラムを書いている。)

正直なところ、なんで今ごろ「英語力」が議論になるのだろうと思ってしまう。日本以外の国だと主要企業の役員・幹部クラスに英語でインタビューできないということは珍しい。日本は逆。英語で受け答えできる方が例外だ。英語が不得意ということで日本や日本企業が受けている損失は、案外ばかにならない。
 対談では、優秀だけど英語が不得手な人と、さほど優秀ではないけれど英語が得意な人のどちらを優遇すべきか、という議論もあった。だが、優秀な人こそ英語をこなさないと、優秀さを世界で発揮できないのではないだろうか。
 社内公用語という「形」を取るかどうかは企業が判断すればいい。変化には不安や弊害が伴う。それを恐れるだけでは何も変わらない。(福本)

面白いことに、英語公用化の話を私が産経の対談の中でしたとき、宗教学者で日本思想史専門家の山折哲雄先生は即座に、「日本の歴史の中で近代まで漢語が和語と併用されていたと同じようにするわけですね。それはもちろん可能なことです。」とおっしゃった。(対談の記事にはならなかったけれど。) 多分、この対談の中で外国語でありかつ公用語たる英語と日本文化、日本人や日本人のアイデンティティー、日本社会との関係がどうあるべきかを瞬時にしっかり理解なさったのは、山折先生だけだったと思う。英語によって、日本人のアイデンティティーが変わってしまうとか、日本文化が退化するとか、国語力が低下するとかいう宣伝はもうやめてもらいたい。私たちの持っている日本文化とは、そんなやわなものではない。日本人はもう少し自らの文化に自信を持っても良いのではないか。