2011年 「勇気」の年

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

あっという間に日本での帰国休暇は終わりを告げ、NYへ帰る飛行機の中。七五三の後、年末から元旦にかけて神奈川の実家で過ごし、あわただしく正月2日の飛行機に乗った。年老いた両親も含め、家族皆が健康で年を越せたことをありがたく思う。「西欧人化」しつつある上の娘(日本滞在中の12月26日に11歳になった)は、大晦日から年が変わる瞬間になぜ花火をあげて歓声とともに祝わないのか、と聞く。TVの「ゆく年くる年」で初詣の人々の列を見せ除夜の鐘を聞かせ、「日本での年越しは過ぎ行く年を省み新年への誓いを新たにする厳粛なものなのだ」といって聞かせるが、娘は「私は花火の年越しのほうが楽しくていいな」とつれない。

さて。2011年新春にあたって、「勇気」ということについて書く。ここしばらく、「勇気」について考える機会が幾度かあった。そもそものきっかけは、国連の仕事仲間と「リーダーの資質」について話し合う会合があったこと。PKO活動の性格上、そのリーダーの資質は活動そのものの成否を左右する。したがって、リーダーシップのポジションに就く人たち(トップの事務総長特別代表、軍や警察の司令官、など)の選抜・任命を厳格にしたり、またこれらのポジションに将来的に選ばれていく人たちのための訓練コースを特別に用意し少なくとも年に2回行っている。任命は人事(そして最終的には事務総長)の役割だが、訓練は私の管轄。加盟国もよくPKOミッションのリーダーの役割の重要性について言及する。ちなみに、リーダー(指導者)とマネージャー(管理者)は当然異なるものである。

リーダーの資質には以下のようなものがあげられるだろう。まずヴィジョンを提示する能力、つまり複雑怪奇で複合的に関連しあう物事を整理して進むべき方向性を明確に示す能力。当然短期的な視点だけでなく中・長期的に物事を見据える力が必要だ。そして決断力。様々なアドヴァイスを考慮するのは良いが、タイミングを逃さず決断すべきときには決断を下さなくてはならない。そしてその決断の結果に責任をとる覚悟が必要なのは当然だろう。人にインスピレーションを与え、適材適所で人を使う能力。これにはコミュニケーション能力だったり、「平時」にはできるだけ部下に権限を持たせて決定を任せ、「危機」に際しては逆に強力に部下を指導して迅速なスピードで決定を下していく異なる能力が必要。つまりPKOで成功する有能なリーダーは両方の能力を兼ね備えていなければならない。

しかし最も必要なリーダーシップの資質とは「勇気」であるというのが、私と私の仲間たちの結論だ。

どの官僚組織でも仕事のやり方には長く続く慣習があり、手続きがあるだろう。国連も同じこと。そんな中で新しいものの見方を受け入れたり、これまでと違う手法で仕事をやってみたり、時にはリスクをとってでも創造的に新しい課題に取り組む「勇気」をリーダーは持たねばならない。なぜなら今、世界はめまぐるしく変化していてこれまでどおりのやり方が通用しなくなっているのは明らかだから。皆が「変わらなくてはならないのでは」と感じていても先陣を切って新しいことに取り組むのは「勇気」のある人のみだ。

日本には「清濁併せ呑む」という言い方があり「度量の大きいことのたとえ」とされるが、組織は奇麗事だけでは動かず、何事も政治的駆け引きの材料となりうる国連でも理想を振りかざすのは野暮であるというのが一般的な考え方だ。私と仲間たちはこれは間違いではないかと考えている。真のリーダーは「清」を目指さなくてはならない。「濁」につぶされないような賢さと戦術と力はもちろん必要だが、「組織を守る」などという理由で「濁」を飲んでしまったら最後、自らもそうなっていくだろう。日本の検察が証拠改ざんというところまで落ちてしまったのも、「清濁併せ呑む」がよしとされる組織文化に一因があったのではないか。そしてこれをよしとしないためには、やはり「勇気」が必要だ。「組織」などという形ではなく、そもそも何が大切なのかという物事の「本質」を見極める力と勇気である。

こう考えていくと、「勇気」とはリーダーだけでなく私たち一人一人がそれぞれの場で持つべき資質、子供のころからはぐくんでやるべき資質だという気がしてくる。変革期にある日本と世界。勇気がいくつか集まって、世の中は進歩していく。私は人類社会は常に「進歩」していくべきだと考えている。

2011年、私も自分の「勇気」をもっと磨いていきたいと思う。